ジッドじゃなくて

パスカルだった。

ここから、賭事、女性たちとの話、戦争、栄職などがあんなに求められることになるのである。そういうものに実際に幸福があるというわけではなく、また真の幸福は、賭事でもうける金とか、狩りで追いかける兎を得ることにあると思っているわけでもない。そんなものは、それをやろうと言われても欲しくないだろう。人が求めるのは、われわれがわれわれの不幸な状態について考えるままにさせるような、そんなのんびりした、おだやかなやり方ではないからである。また、戦争の危険でも、職務上の苦労でもない。そうではなく、われわれの不幸な状態から、われわれの思いをそらし、気を紛らせてくれる騒ぎを求めているのである。(パスカル『パンセ』、前田陽一訳、中央公論社「世界の名著 29」、p.122.)

 

これに対してカミュは「パスカルの気晴らしはわれわれを神から遠ざける」って言ってるのですよね。要するに、気晴らしは人間を本質(および本質についての思考)から遠ざけるけど、そのような気晴らしの存在意義についてどのように評価するかは人によってさまざまという。それでわたしは、気晴らしをして遠ざかってるつもりのものに、むしろ気晴らしによって接近してしまって、困っている状態です。