11/13/17

シモーヌ・ヴェイユは、自らの偶像崇拝の傾向を自覚し、それとつねに戦っていたといいます。

感覚を追いもとめることは、「愛するひとをたんに楽しんだり、苦しんだりするのに一時的に利用しているにすぎず、相手が独自に存在することを完全に忘れている」。彼女は右の手紙のなかでさりげなく、偶像崇拝の中心である心理操作を的確に指摘した。つまり、世界の現実から自分の現実をつくり、それを全部吸収する。そのあと、わたしたちが世界に見るものと、わたしたちが反応する対象とは実際には、姿を変えたわたしたち自身にほかならない(ロバート・コールズ、福井美津子訳 『シモーヌ・ヴェイユ入門』1997年、平凡社)。

 

わたしは松村北斗くんというアイドルを好きです。北斗くんとわたしの文学の趣味は全く合いません。合わないどころか、北斗くんの好きな作家はたいていわたしの苦手な作家です。わたしは太宰が好きではありません。そして、太宰を好み、さらに太宰を好きであることを公言するようなメンタリティの男性も好きではないと大声で言いながらいままで生きてきました。ところがこのたび、北斗くんは太宰を好むということを知ってしまいました(北斗くんが太宰について発言したのは1年以上前のことです)。しかも、北斗くんは太宰を好きであるということを雑誌で述べており、これは公言以外のなにものでもありません。

わたしは、北斗くんの好きな作家が太宰であるということをいさぎよく忘れることにしました。現実の北斗くんのうちの好きな部分70%くらいを選び取り、その70%くらいの北斗くんを自分のなかで100%に拡大して楽しみたいと思います。わたしのこの行為はシモーヌ・ヴェイユの批判する偶像崇拝のありかたそのものですが、仕方ありません(そもそもシモーヌ・ヴェイユのいう偶像崇拝の対象は信仰や政治にかかわることであり、アイドルなんて想定していないと思いますが)。

 

本題はここからです。北斗くんが太宰を好きという事実自体よりも、その事実を知ったときの自分の心の動きのほうがショックでした。北斗くんが太宰を読むことよりジェシーがTANTAを着ることのほうがよっぽどましだと考えてしまう自分に失望しています。わたしはアイドルに外見上の美しさだけを求めていたはずです。アイドルの外見に悪影響を及ぼすのは、太宰よりもTANTAであるはずです。アイドルに外見上の美しさだけ求めるならば、わたしの好きなアイドルの北斗くんの好きな作家が太宰であるということをいさぎよく忘れる必要はありません。そのまま受けとめればいいだけの話です。そもそもわたしは北斗くんのダンスと容姿を見て好きになったはず。わたしはアイドルに何を見て何を望んでいるのか、今一度よく考えてみたいと思います。