スウィートアンサーに辿りつきたい

 

わたしは自分が消費されることなく男性とのかかわりを持てる場所としてジャニーズを選び続けているところが少なからずある。いままで生きてきて、(傲慢で一方的な言い方だけど)わたしのほうが持っているものはたくさんあるし優秀なのに、下に見てきたり消費の対象にしようとしたり頼んでないのに庇護下に置こうとしたりしてくる男の人ばっかりで、不思議だったし我慢ならなかった。それでも「男の人」は好きだから、一般の男の人を自分の世界から排除して、ジャニーズやメンズノンノモデルを遠巻きに見つめることで最近はバランスを取っている(つもり)。

愛は、男性支配の法則のひとつの例外、唯一の、だが最大級の例外、象徴暴力の一時停止なのだろうか。それとも象徴暴力の(もっとも巧妙でもっとも目に見えないがゆえに)至高の形態なのだろうか(ピエール・ブルデュー『男性支配』坂本さやか, 坂本浩也訳(2017)藤原書店

最近は男の人と価値観が合わないことよりも周囲の女の人と価値観が合わないことのほうがつらく感じる。「ATM」を自称したり「抱き捨てられたい」「オンナ」という言葉をつかうオタクを見ると、わたしと同じことを望んでいる女の人ばかりではないのだなと思う。そういう言葉を自ら積極的につかう女の人がこれだけいるなら、男性側も変わるわけないし、わたしの望む世界は永遠にやってこないのだと虚しくなる。オタクに限らず、普段の生活でまわりにいる女の人たちもそう。親やさらにその上の世代に「結婚は女の幸せ」と説かれるのはうんざりしつつも生きてきた時代もあるしまあ仕方ないのかな、と思えるけれど、同年代の女の人たちが人生の一大目標に結婚を掲げているのを見ると不思議で仕方がない。ゼクシィのいう「結婚しなくても幸せになれる時代」に生きる、自分で生活を成り立たせることのできる女の人がなぜ結婚を望むのだろう。もしかしたら、わたしのまだ知らない、ブルデューのいうところの「男性支配の法則のたったひとつの例外である愛」をまわりの女の人たちはとっくに知っているのかもしれない。だから、かっこよくない恋人と楽しそうにしていたり、幸せな結婚を夢見ることができるのかもしれない。でも、わたしの前にはそんな愛は一生現れないし、そもそもそれを見つける目をわたしは持っていない。