1/26/18 普遍言語・パワーワード

信じられないくらい寒い。先週までは今回の冬は寒くないなーなんて思ってたけど、今週入ってから信じられないくらい寒い。

きょうも授業に行った。普遍言語の話などを聞いたりしたんだけど、なんとなくジャニオタのSNSのことを思い浮かべたりした。

なぜジャニオタの言語は画一化されていくのか?だれかが作った「パワーワード」を使って同じような表象を繰り返していくことでいったい何が満たされるのだろうという疑問をここしばらく持っている。どのような欲望が、人々を「パワーワード」を用いたコミュニケーションに向かわせるのか。そこで、きょう聞いた普遍言語の話とジャニオタを重ね合わせて考えてみたいと思います。

普遍言語が希求された文脈のひとつとして、大航海時代を経てヨーロッパの外の世界と接触する機会が生じたというのがある。そう考えると、オタク界も大航海時代を経て(?)、いまは他ジャンルのオタクと容易に接することのできる時期とも言えるのかもしれない。ほかの文脈としては、フランス革命があって、その共和国のすばらしい理念である博愛自由平等を伝導したい、それには普遍言語が必要、みたいな。たしかにオタクもなにかを称揚したり伝導したくてパワーワードを用いてる節はありますよね。というわけで、オタクのパワーワード使用は、普遍言語を希求しつづけてきた人々の営みの延長なのかもしれない、とややこじつけながらも考えてみると、そんなにいらいらしない気もする(それでも好きにはなれないが)。

どんなに各人による表象が異なっていたとしても、世界はひとつであるはず、あってほしいみたいな信仰も関係あるのかなと思った。世界がひとつであることを確認するために普遍言語は求められている。ジャニーズ、というかアイドル(アイドルにも限らないがアイドルはわかりやすい例だと思う)ってわたしたちの認識によって存在が形成されていくもので、その実体ってなんなんだろう?わたしが見てる○○くんってわたしが作り上げた虚像でしかないのかな?って思ってオタクは不安になりがち。でも、自分以外のたくさんのオタクも自分と同じ言葉で表象していたら、○○くんがたしかに自分が思い描くその姿で実在するものとして感じやすいのではないか、みたいな。何人ものオタクが考えた何人もの○○くんがいるんじゃなくて、虚像ではないひとりの○○くんがたしかにそこにいるんだ!と感じられそう、と思った。

とりとめもなくなってきましたが、①他ジャンルのオタクあるいは他担という外の世界に簡単に布教することができる②大人数のオタクがひとつの言葉でジャニタレを表象することによって、そのジャニタレの存在をいくつもの虚像ではなくたしかなひとつの存在として感じられる などのメリットによってジャニオタはパワーワードを使いがちなのではないかな、というアイデアでした。時間あるときにもっとちゃんと考えたいけどとりあえずメモとして。